【六義園】柳沢吉保が完成させた回遊式庭園の歴史と変遷 | 岩崎家・東京市への寄付と四季折々の見どころ
六義園は元禄時代、柳沢吉保が7年かけて完成させた回遊式庭園です。次第に荒廃するも、明治期に岩崎弥太郎が買収し修復を開始。昭和13年(1938年)に東京市に寄付され、現在は都心の別世界として桜や紅葉の四季の美を楽しめます。
読んだらこうなります。
- 六義園が完成に至るまでの柳沢家歴代当主による変遷と、作庭が完了するまでの期間(7年間)を理解できます。
- 荒廃した庭園を別邸として買収・修復した岩崎家の貢献と、その後の東京市への寄付の流れを知ることができます。
- 庭園のシンボルであるしだれ桜や躑躅(ツツジ)の美しさ、渡月橋や藤代峠など園内の主要な見どころを把握できます。
変遷(歴史の主な流れ)
六義園は、主に①柳沢家時代→ ②岩崎家時代 → ③官営時代(東京)を経て変遷しています。
柳沢家時代
- 元禄8年(1695年)4月22日: 柳沢保明(後の吉保)が、加賀藩前田家の下屋敷跡地であった駒込の地、約45,862坪を幕府より拝領しました。
- 年月不詳: 保明が六義園の作庭を開始します。
- 元禄15年(1702年)10月21日: 作庭は7年目におよび完成しました。
- 宝永6年(1709年)4月13日: 吉保夫妻が本邸から六義園に移ります。
- 正徳4年(1714年)11月2日: 吉保は六義園において57歳で亡くなりました。
- 年月不詳: 2代当主の柳沢吉里の代では、手入れが良くされていました。
- 寛政4年(1792年)3月: 3代当主の柳沢信鴻が六義園に来た際には、完成時の姿を保っていました。
- 文化6年(1809年): 4代当主の柳沢保光が家臣に復旧工事を命じ、工事は約1年かかり多大の費用を要しました。
- 年月不詳: この後、六義園は次第に荒廃に傾いていきました。
岩崎家時代
- 明治7年(1874年)9月: 岩崎弥太郎が上京します。
- 明治11年(1878年): 弥太郎は荒廃した六義園を買収し、別邸としました(同時期に清澄庭園も買収しています)。
- 明治19年(1886年): 弥太郎の弟である岩崎弥之助により、六義園の修復工事が開始されました。
- 年月不詳: 弥之助の長男である岩崎久弥の代で、六義園は本邸となりました。
- 不詳: 久弥の代で、六義園を残し、所有地(東側は東洋文庫と理研、西側は大和郷住宅地、北側は国電山手線と駒込駅を含む総計12万坪)を譲渡売却しました。
官営時代
- 昭和13年(1938年)4月27日: 久弥より六義園が東京市に寄付されました。
- 年月不詳: 東京市は、園路整備と人止め柵設置、松の手入れを行いました。
- 昭和13年(1938年)10月6日: 六義園が開園されました。
- 昭和18年(1943年)- 現在: 東京都が六義園の所有・管理を引き継いでいます。
所有者(当主名と所有期間)
六義園の所有者は、大きく分けて柳沢家、岩崎家、東京市/東京都と変遷しました。
| 時代区分 | 所有者(当主名) | 所有期間 |
|---|---|---|
| 柳沢家時代 | 柳沢吉保(保明) | 元禄8年(1695年) - 宝永6年(1709年) |
| 柳沢吉里(2代) | 宝永6年(1709年) - 延享2年(1745年) | |
| 柳沢信鴻(3代) | 延享2年(1745年) - 安永2年(1773年) | |
| 柳沢保光(4代) | 安永2年(1773年) - 文化8年(1811年) | |
| 柳沢保泰 | 文化8年(1811年) - 天保9年(1838年) | |
| 柳沢保興 | 天保9年(1838年) - 嘉永元年(1848年) | |
| 柳沢保申 | 嘉永元年(1848年) - 明治2年(1869年) | |
| 明治政府・柳沢光邦 | 明治2年(1869年) - 明治11年(1878年) | |
| 岩崎家時代 | 岩崎家(弥太郎、弥之助、久弥ら) | 明治11年(1878年) - 昭和13年(1938年) |
| 官営時代 | 東京市 | 昭和13年(1938年) - 昭和18年(1943年) |
| 東京都 | 昭和18年(1943年) - 現在 |
補足:主要な見どころ
六義園の見どころは、3月末に満開を迎える大きなしだれ桜、春から夏に咲き誇る華々しい色彩豊かな景色です。特に躑躅(つつじ)の花が有名で、地元では「駒込と言えばツツジの花の咲く街」と謳われる象徴的な存在です。
園内の景観としては、
①和歌から名付けられ2枚の大石で造られた「渡月橋」
②築山の高さが35メートルで「富士見山」とも呼ばれる「藤代峠」
③神仙思想を主題とした石組みが特徴の「蓬莱島」
④そして広い園内で最も展望に恵まれた場所の一つである「出汐湊」
が名勝
六義園の変遷
六義園の所有者は、大きく分けて柳沢家、岩崎家、東京市/東京都という流れをたどりました。
-
始まり:柳沢吉保による作庭と所有(元禄時代)
- 元禄8年(1695年)4月22日、柳沢保明(後の吉保)が、加賀藩前田家の下屋敷跡地であった駒込の地を幕府より拝領しました。
- 保明(吉保)が作庭を開始し、元禄15年(1702年)10月21日に7年かけて完成させました。
- その後、柳沢家は歴代当主へと受け継ぎましたが、次第に六義園は荒廃に傾いていきました。
-
岩崎弥太郎による買収と修復(明治時代)
- 明治11年(1878年)、岩崎弥太郎が荒廃した六義園を買収し、別邸としました。
- 明治19年(1886年)には、弥太郎の弟である岩崎弥之助により修復工事が開始されました。
- 岩崎久弥(弥之助の長男)の代で本邸となりましたが、その後、六義園を残して所有地を譲渡売却しました。
-
東京市への寄付と一般公開(昭和時代)
- 昭和13年(1938年)4月27日、岩崎久弥より六義園が東京市に寄付されました。
- 東京市は園路整備などを行い、同年10月6日に六義園は開園されました。
- 昭和18年(1943年)以降は、東京都が所有・管理を引き継ぎ現在に至ります。
なぜ六義園の由来か
六義園の作者である柳沢吉保が和歌に造詣が深かったことが示唆される要素として、
園内の見どころの一つである「渡月橋」が**「和歌から名付けられ」**たと説明されています。
六義園の名称は、中国の詩の分類法である「六義」(風・雅・頌、賦・比・興)に由来するとされています


コメントを投稿